金融経済イニシアティブ

東日本大震災 日銀災害対策室の経験

2021.01.31

東日本大震災の発生から、10年が過ぎようとしています。

 

筆者は、当時日本銀行本店に勤務し、災害対策室を統括する立場にありました。

本稿は、その経験を基に日銀の旧友(OB・OG)向けに書いた原稿に筆を加え、再構成したものです。内容とデータは、震災後に日銀が公表した論文「東日本大震災における我が国決済システム・金融機関の対応」(2011年6月、日本銀行決済機構局)を参照しています。

文責はすべて筆者にあります。

 

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2011年3月11日(金)午後2時46分。

 

たまたま総裁室にいた私は、突然の揺れに部屋を飛び出した。当時、私は日本銀行で、業務継続を統括する決済機構局の担当理事だった。廊下がゆがんで見えるほどの揺れに、なかなか前に進めない。秘書からヘルメットを受け取り、そのまま階下の災害対策室に向かう。

 

対策室に集合した決済機構局のスタッフとともに、情報収集を開始する。震源地は東北地方太平洋沖。被害の状況はまだまったく分からない。しかし、東京であれほどの揺れだ。大規模な災害であることは、間違いない。エレベータが緊急停止するなか、今度は階段を駆け上がる。白川総裁に決裁を仰ごうとするが、息が切れ、言葉がうまくつながらない。午後3時ちょうど、総裁を本部長、副総裁を副本部長とする「災害対策本部」の設置が決まった。

 

災害対策室

 

災害対策室は、災害対策本部の前線として、①日銀内外の情報を集め、本部の指示を全行に伝える役割と、②行政当局等との連絡の役割を担う。緊急時にいつでも利用できるよう、あらかじめ一室を割り当て、情報機器やホワイトボード、テレビなどを設置してある。端末ソフトのアップデートも、事務局スタッフが常時行っている。

 

災害対策本部設置の決定が伝えられると、本店各局室から2名ずつの職員が対策室に参集する。1名は各局室の情報を本部に伝え、もう1名は本部の指示や情報を各局室にフィードバックする役割だ。被災地の支店・事務所や行政当局との連絡は、事務局スタッフが担う。

 

一室に50名ほどが集結し、大声が飛び交う。情報はホワイトボードと行内のイントラネット(情報掲示板)に集約され、全行で共有される。以後、余震が続くなか、この作業が1週間近く続いた。

 

職員・来客の安全確保、施設の点検

 

初動は、職員の安否確認と来客の安全確保から始まる。本支店、事務所職員の安否の確認は、あらかじめ用意された安否確認システムを通じ、当初順調に進んだ。被災地域の支店のなかには近距離出張中の者もいたが、これも早い段階でみずから連絡してきてくれた。

 

だが、東日本大震災では、地震から時間をおいて津波が発生した。そのため、外出中の者に再度、安否を確認する必要が生じた。しかし、通信状態は大幅に悪化しており、連絡はままならなかった。結局、安否が再確認されたのは翌朝だった。

 

本支店を訪問中の来客も多かった。本店では、全国の金融機関を対象とするセミナーも開かれていた。セミナーはただちに閉会としたが、遠隔地からの参加者の一部はしばらくの間行内に残った。

 

本支店、事務所の職員も、交通機関の運行停止から、多くが職場で夜を明かした。本店職員の多くが帰宅の途についたのは、結局、翌12日(土)の早朝となる。被災地のなかでも、とくに仙台支店では、その後も多くの職員が支店内に臨時宿泊を続け、業務の遂行に当たった。

 

本支店、事務所の建物や設備は、一部に損傷がみられたものの、大きな被害を免れた。こうしたなかで、東北地方所在の各支店は停電に見舞われ、自家発電機を稼働させて当日の業務を完了した。なかでも仙台支店は地域一帯の停電が長引き、週末の業務(現金の払い出し等)も自家発電を利用して実施した。同地域の電力は、2日後の13日(日)夕刻、復旧した。

 

決済システムの運行確認、確保

 

災害対策室のもう一つの初期動作は、行内外の決済システムの運行確認である。地震の規模は本店、府中分館周辺ともに震度5弱だったが、日銀ネットも周辺機器も異常なく、震災後も通常稼働を続けた。

 

全銀システムなどの民間決済システムも、点検の結果、異常のないことが確認された。一方、個別金融機関のなかには、社内のコンピュータシステムに障害が生じた先があり、当日の決済は代替手段で進められた。震災発生が午後の遅い時間帯であったため、処理件数は限られ、大きな支障は避けられた。同社は、週末にシステムの修復を終えている。

 

被災地の金融機関や共同システムセンターのシステムも、正常稼働が確認された。しかし、仙台地域に所在の先の多くは前述のとおり大規模な停電に見舞われた。これらの先は、自家発電機の稼働により当日の業務を完了させ、さらに夜間のバッチ処理も行った。

 

同地域の電力は、前述のとおり13日(日)夕刻までに回復したが、停電のさなかにあっては、いつまで停電が続くか見当がつかなかった。万一週明け後も停電が長引くようであれば、自家発電機用の燃料もいずれ備蓄が尽きる。こうした万一の事態に備え、一部の金融機関やITベンダーは燃料手当てに奔走した。

 

停電は、最近頻発する自然災害を踏まえても、頭の痛い問題である。停電に備え予備の燃料を十分に確保しておくのは、当然だ。しかし、燃料供給元と優先供給契約を交わしたとしても、大災害時にはほとんど役に立たない。道路の寸断などもあって、燃料の輸送経路や車両を確保するのにも困難が伴う。

 

現在、キャッシュレス決済への動きが加速している。だが、キャッシュレスは停電に弱い。キャッシュレス化の議論が、単に「現金はない方がよい」というものであれば、私は組みすることはできない。

 

現金の払い出し(休日の業務遂行)

 

東日本大震災では、地震、津波、原子力発電事故という三つの災害が連続的に発生し、多くの人が避難生活を余儀なくされた。住み慣れた土地を離れ、遠隔地に向かう人も多かった。その際には、銀行から預金を引き出し、現金を持参するケースが圧倒的だった。現金は、人々のライフラインの一つである。

 

地元金融機関は、震災発生後ただちに翌12日(土)、13日(日)の営業再開を決め、被災者の預金引出しに応じた。日銀も両日、青森、仙台、福島の各支店と盛岡事務所(盛岡保管店)の窓口を開け、金融機関に対する現金の払い出しを行った。東北地方所在の支店・事務所の現金支払い額は、被災後1週間で累計約3,100億円に達した。これは前年同期の約3倍に当たる。

 

さらに私を驚かせたのは、東京の本店にも週末、金融機関から現金の払い出し要請が寄せられたことだ。震災当日、首都圏は交通網が混乱に陥り、職場や周辺地域で夜を明かした人が続出した。その際、人々が一斉にコンビニやスーパーに向かったために、釣り銭用の硬貨が不足するおそれが出てきた。日銀本店も12日(土)に発券局の窓口を開け、硬貨を中心とする現金の払い出しを行った。

 

被災地金融機関の現況確認

 

私たちを悩ませた出来事の一つに、被災地金融機関となかなか連絡がとれなかったことがある。津波被害の大きかった東北地方太平洋沿岸部には、地元銀行の支店のほか、信金や信組、JAなどの本支店が数多くあった。しかし、通信網の途絶が続き、被害状況の確認はままならなかった。日銀本支店、金融庁と財務局・財務事務所、系統金融機関の中央機関・協会など、様々なルートと手段でコンタクトを試みたが、連絡は容易でなかった。

 

結局、すべての金融機関と連絡がとれたのは週明け後だった。最後に連絡のとれた地元組織金融機関の第一声は、次のように伝えられている。

「本支店の建物、設備も被災し、使えない状態が続いているが、近くに代替の場所を見つけた。すぐにでもそちらで預金者に対応したい。ついては、帳票類等(共同システムセンターで印字するもの)を送ってくれるよう、関係者に伝えてほしい。」

 

被災地金融機関への現金や帳票類の輸送は、現地の金融機関が協力して対応した。単独の金融機関では、車両が流されていたり、道路網の寸断で、通過できる車両の大きさに制限があったりして、対応困難だったからだ。必要な帳票類を、仙台から近隣の金融機関まで運び、そこで別の金融機関の車両に積み替えて被災金融機関まで運ぶこともあった。

 

日本の金融システムは、こうした金融機関の責任感と相互の協力によって支えられている。

 

被災のために、業務をすぐには再開できない金融機関の店舗も多数にのぼった。被災2週間後の28日(月)の時点ですら、東北6県、茨城県に本店のある72金融機関の全営業店約2,700のうち、約170店舗が休業を続けていた。なかには国庫金・国債事務を取り扱う一般代理店もあり、日銀本支店はこれらに代わって対官庁事務を引き受けた。

 

金融機関への要請と預金者への対応

 

震災発生の当日夜、内閣府特命担当大臣(金融)と日銀総裁の連名で、金融機関に対し、預金者への柔軟な対応等を要請する声明を出した。

 

民間金融機関の対応は素早かった。東日本大震災では、被災者が遠隔地に避難する例があり、近くに預け先金融機関の支店が存在しないケースが少なくなかった。

 

それでも円滑に預金を引き出せるよう、預金者がどの金融機関を訪ねても、①担当職員が窓口で本人確認を行い、②預金口座をもつ被災地金融機関に確認をとったうえで、③一定限度まで代理払いを行った。当初、地域金融機関の間で始まったこの取り組みは、すぐに全国の金融機関に広がった。

 

計画停電

 

震災直後の週末の深夜、官邸に官庁幹部が招集され、私も会議に加わった。14日(月)早朝から始まる計画停電の説明と協力要請のための会議だった。原発事故の発生で、週明け後には、東京電力、東北電力管内でブラックアウト(大規模停電)が生じるおそれがあるとのことだった。

 

宮城、福島、岩手などの指定被災地は計画停電の対象外とされたが、関東一円および東北地方の一部は計画停電の対象域とされた。日銀支店の一部も対象域に入り、計画停電の実施日は自家発電機を稼働させて業務を行った。

 

首都圏では、計画停電の始まった14日(月)早朝、交通機関が大混乱に陥った。業務上必要な職員にはあらかじめ早出を要請していたが、それでも、交通の乱れから出勤困難となる職員が続出した。始業時点で出勤できた職員数は、平時をかなり下回ったと記憶している。各部署でなんとか人繰りをつけ、午前の業務を繰り回した。

 

強制的な計画停電は、4月上旬に終了した。しかし、夏場には政府から再び全産業、全国民に向け大幅な節電要請がなされた。日銀も、要請された節電を確実に達成すべく、関係局室で精力的な検討を行った。深夜の効率的な蓄電や一部業務の土日への振り替えなど、数多くの対策を実行し、大幅な節電を実現した。

 

金融調節、金融政策

 

金融調節、金融政策は災害対策本部の所掌を外れるので、事実だけを記録しておきたい。

 

金融市場局は、震災発生直後から、金融市場に対し大量の資金供給を行った。また、18日(金)には、G7財務大臣、中央銀行総裁の電話会議が行われた。会議では、急速に進む円高に対し、日本、米国、英国、カナダ当局、欧州中央銀行による為替市場への協調介入が合意され、同日、合意に沿って為替介入が実施された。

 

金融政策面では、当初14日(月)、15日(火)の2日間を予定していた金融政策決定会合を、14日(月)の1日に短縮し、金融緩和の一段の強化を決定した。さらに、4月28日(木)の決定会合では、「被災地金融機関を支援するための資金供給オペレーション」の実施を決定している。

 

大手銀行のシステムトラブル

 

3月14日(月)夜、一部大手銀行に新たなシステム障害が発生した。影響はその後、日をおって拡大した。一時は、夜間のバッチ処理が朝方までに終了せず、営業時間を迎えても、支店窓口で取引を行えない事態も発生した。ATMも一時全面停止し、銀行窓口で預金の便宜払いも行われた。この間、受信為替電文の未処理と為替電文の未送信が大量に発生した。

 

障害は、大震災の義援金が一部口座に大量に集中し、その後の対処ミスとあいまって大規模に及んだものだった。

 

私は、当時、金融機構局の担当も兼ねており、当該行の首脳から直接報告を受ける立場にあった。日銀も、当該行と他行との為替決済ができる限り多く処理されるよう、全銀システムの運行時間延長にあわせて、日銀ネットの決済時間を延長した。しかし、障害はなかなか復旧せず、結局、事態が収拾するまでに1週間以上を要した。

 

風評と広報

 

緊急事態にあっては、決済や金融システムの状況を世の中に正確に伝え、国民に事態を冷静に受け止めてもらう必要がある。日銀は、震災発生後いち早く、①日銀ネットは正常に稼働していること、②災害対策本部を設置したこと、③金融市場の安定と資金決済の円滑確保に万全を期すことを文書にして、公表した。

 

その後も、節目、節目で発信を続けた。また、被災地の支店・事務所からは「預金通帳がなくても、民間金融機関の窓口で預金の便宜払いに応じていること」や「日銀や民間金融機関窓口で損傷通貨の引き換えを行っていること」を、テレビ、ラジオを通じて繰り返し発信した。

 

海外の中央銀行・関係機関にも、役員や所掌部署から日本の状況を細かく伝えた。これを受け、各国中央銀行の友人たちから多くの励ましの言葉をもらっている。

 

悩ましかったのは、震災直後から数々の風評が流されたことである。「日銀がシステムセンターを大阪に移した」、「日銀が本部機能の一部を大阪に移管する準備に入った」というものや、「週明け後の証券取引所は閉鎖される」というものがあった。いずれもまったくのデマだった。しかし、風評は海外にも流布され、真偽のほどを確かめる電話が数多く入った。担当部署は、風評の否定に多くの時間を割くことになった。

 

原発事故対応

 

原発事故に対しても、日銀福島支店、本店は特別な対応を迫られた。現地の深刻さを語るには私は適任でなく、別の方に譲ることとするが、福島支店の職員は、初期対応のほか、現金の回送などに力を尽くしたことを記しておきたい。

 

損傷現金の引き換え

 

震災発生後、時間が経つにつれて、被災地の支店、事務所には損傷現金が続々と持ち込まれるようになった。東日本大震災では、遠隔地に避難した被災者が多かったこともあり、損傷現金の持ち込みが全国本支店に及んだことも特徴である。

 

損傷現金には、津波で水に漬かった銀行券・硬貨と、火災で損傷を受けた銀行券・硬貨の両方があった。なかでも、宮城、福島、岩手の各県は津波の被害が大きく、仙台、福島両支店に加えて、盛岡にも臨時窓口を設け、引き換え事務を行った。現地の支店、事務所には、応援のため、本店や他支店から長期にわたり職員を派遣した。

 

記録によれば、東北地方所在の支店および盛岡臨時窓口での損傷現金の引き換え額は、震災発生後6月21日(火)までの約3か月間だけで、24億円強にのぼる。これは、阪神・淡路大震災後6か月間の神戸支店の引き換え実績の約3倍に当たる。

 

職員の対応

 

災害対策室の本格的な活動は、時間の経過とともに縮小し、2~3週間後には平常に戻った。しかし、損傷現金の引き換え事務や計画停電に伴う休日対応など、現場の対応はその後も半年以上続いた。

 

震災発生直後から平時に戻るまでの間、一人一人の職員がそれぞれの責務を淡々とこなした。とくに被災地の支店、事務所の職員の努力はたいへんなものだった。一部には、交通網の寸断にもかかわらず、複雑な経路を時間をかけて支店まで通ってくれた職員もいたと聞く。

 

本店各局室の職員も、それぞれの部署で求められる責務を果たした。災害対策室の事務局はもとより、現金の受け払い、日銀ネットの運行、国庫、国債関連の事務、金融機関の動向把握、金融政策関連の施策遂行など、全力で事態の収拾に当たった。

 

また、そうした現場での仕事だけでなく、日ごろから堅牢な建物を建設し、営繕や警備に当たってくれた職員、非常用食料や救援物資をあらかじめ用意してくれていた職員、事前の災害訓練に誠実に取り組んでくれた職員――そうした一人一人の力が、日銀の震災対応を支えた。

 

おわりに、中央銀行の責務

 

中央銀行の役割は、世間でしばしば誤解されている。「物価の安定確保」が中央銀行の最上位の責務であり、これがすべてに優先するという誤解である。

 

しかし、私の理解は違う。中央銀行の責務を一言で表すならば、「通貨の信認確保」だと思う。「通貨の信認確保」とは、①銀行券の円滑な発行と流通、②決済システムの円滑で安全な運行、③金融機関の正常な業務運営と金融システムの健全性確保、④物価の安定確保――それらをすべて包含する概念である。

 

青臭い議論をすれば、「通貨」は現金と銀行預金からなる。また、通貨は、①価値の保蔵、②決済、③価値の尺度の三つの機能をもつ。日銀の責務は、これらの通貨の機能が十全に発揮されるよう、――すなわち、国民が安心して通貨を保有し、利用できるよう、あるいは、「通貨」が「通貨」として機能するよう――万全の対応をとることである。

 

大震災やリーマン・ショックのような緊急事態にあっては、それらの機能のすべてが危機にさらされ、中央銀行の真価が問われる。それゆえに、日銀全職員は一丸となって、職務の遂行に全力を投じる。発券、決済、金融システム、物価(経済)のどれ一つとして欠かせないし、何かが優先されるということもない。

 

中央銀行の責務に対するこうした理解を、私は先輩たちから直接、間接に教えられた。また、数多くの職務を通じて学んだ。これを後輩たちにうまく伝えられたかどうかは分からないが、ぜひそうあってほしいと願う。震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、筆をおくこととしたい。

 

以 上