名目賃金がほとんど上がっていない謎 ~「賃金と物価の好循環」ははるかに遠く
2023.11.01日本銀行は、昨日(10月31日)の金融政策決定会合で長短金利操作(YCC)を再修正し、長期金利が上限めど1%をある程度超えることがあっても、容認する場合があるとの姿勢を示した。
一方、マイナス金利をはじめとする大規模な金融緩和の大枠は維持した。日銀の公表文では、「「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現という観点から、賃金と物価の好循環など経済・物価情勢の変化を丹念に確認していく」としている。
では、足元の「賃金と物価の関係」はどうか。端的に表す実質賃金指数は、17か月連続で前年比マイナスに沈んでいる。直近8月の同指数前年比はマイナス2.8%と、到底「好循環」とは言えない状況にある。
春闘で大幅な賃上げが実現した際には、夏場にも「好循環」が確認されるとの観測もあったが、的外れだった。一体、何が起きているのだろうか。
ほとんど上がっていない名目賃金
参考1が、毎月勤労統計調査(以下、「毎勤統計」)の名目賃金(月間現金給与総額)と実質賃金指数の前年比推移である。
(参考1)名目賃金および実質賃金指数前年比
(出所)「毎月勤労統計調査」(厚生労働省)をもとに筆者作成
グラフから分かるように、実質賃金の大幅マイナスは物価の高止まりだけが理由ではない。名目賃金(8月、以下同じ)も前年同月比+0.8%しか上がっていない。昨年の同時期に比べても低い伸びにとどまる。
コスト上昇に苦しむ中堅・中小企業が正規雇用を抑制
今春闘の妥結水準や最低賃金の大幅引き上げを思い起こせば、足元の名目賃金の伸びは意外な低さだ。
毎勤統計は、常用労働者を「一般労働者」と「パートタイム労働者」に区分する。「一般労働者」とは、「パートタイム労働者」以外を言う。統計によれば、「パートタイム労働者」の現金給与総額は前年同月比+2.4%と、たしかに高めの伸びを示している。
にもかかわらず、全体がわずか+0.8%の伸びにあるのは、①「一般労働者」が+1.2%の伸びにとどまったことと、②賃金が低めの「パートタイム労働者」の構成比が高まった結果、加重平均値が押し下げられたことがある。
参考2が、「パートタイム労働者比率」の推移だ。2020年の上期に新型コロナの感染拡大を受けて大幅に低下した後、コロナの収束とともに低下分を完全に取り戻し、今はさらに上昇を続けている。
(参考2)「パートタイム労働者比率」の推移
(出所)「毎月勤労統計調査」(厚生労働省)をもとに筆者作成
これらを俯瞰すれば、原材料費の高騰と賃金コストの上昇で窮地に追い込まれた中堅・中小企業が、賃上げ率を抑えつつ、パートへのシフトを加速させたということだろう。
賃金が上昇を続けるには、企業の純付加価値(注)の向上が不可欠である。名目賃金の伸び悩みと「パートタイム労働者比率」の上昇は、その条件が整っていないことの証し(あかし)だろう。
(注)純付加価値とは、売上高から、原材料費や減価償却費を差し引いたもの。大づかみに言えば、ここから従業員への給与が支払われ、残りが企業の利益となる。
「好循環」が見極められるのは早くても来年秋口か
参考1が示すように、名目賃金の伸びは夏場に腰折れした。鍵は、中堅・中小企業の付加価値の動向と雇用姿勢にある。春闘の結果や最低賃金の動向だけで「賃金と物価の循環」を見極めるのは難しい。
今年の経験を踏まえれば、中堅・中小企業を含む全体像を把握できるのは秋口以降になる。仮に今後「賃金と物価の好循環」が実現するとしても、見極めが可能となるのは早くても1年後となる計算だ。
「好循環を見極める」政策姿勢は適切か
だが、そもそも日銀の「好循環を見極める」姿勢は、適切なのだろうか。
中央銀行は物価の番人であって、賃金の番人ではない。賃金は、基本的に企業の付加価値によって決まる。中央銀行は直接コントロールできない。
金融政策は、本来「短期の経済変動を均す」ための手段だ。物価が上がれば金融を引き締め、物価が下がれば金融を緩和し、そうしたプロセスを経て物価を安定させる――これが金融政策の役割である。
昨年4月から1年半にわたり、物価(生鮮食品を除く消費者物価総合、前年同月比)は2%を超えている。にもかかわらず、日銀が金融政策の正常化に踏み切らないのは、「物価目標2%の安定的な達成」を絶対視し、半永久的な物価2%超えを自らに課しているからだ。
しかし、物価目標の「2%」に確かな根拠があるわけではない。米国も「平均物価目標2%」を掲げ、その実現にこだわったばかりに、物価の高騰と金融システムの不安を招いた(2023年4月「金融不安を招いた米国の「平均物価目標2%」へのこだわり~引き締め遅れで急激な利上げを余儀なくされたFRB」参照)。FRBは、今も後遺症に苦悩している。
日銀が言う「物価目標2%の安定的な達成」は、米国の「平均物価目標2%」以上にハードルが高い。
異次元緩和開始後の実質賃金指数の前年同月比(単純平均)は、マイナス0.8%だった。すなわち、①物価目標2%を絶対視した金融政策と②マイナスの実質賃金が、10年5か月もの間併存してきた。これは、日本経済の真の課題が「金融緩和の不足」でなく、「企業の付加価値の伸び悩み」にあったことを示している。
中央銀行は、やはり企業の付加価値をコントロールできない。中央銀行にとって、企業の付加価値や賃金は「与件」として扱うべきものだ。現状の付加価値の伸びを「与件」とすれば、日銀がとるべきは、「賃金と物価の好循環」の見極めでなく、「物価目標2%を絶対視する姿勢」の見直しの方ではないか。
日銀は「賃金が上昇しやすい環境を整えていく方針」を強調している。耳に心地よい表現だが、「賃金と物価の好循環」の見極めに時間をかけるほど、過去10年と同様にずるずると異次元緩和を続けることになりかねない。
その間に異次元緩和の副作用は着実に累積していく。市場経済の基盤である市場機能の低下を、軽視してはならない。
以 上
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