金融経済イニシアティブ

日銀の今次利上げが意味するもの ~「物価と賃金の悪循環」の可能性にも留意せよ

2024.08.01

日本銀行は、7月31日の金融政策決定会合で、国債買い入れの減額計画とともに、短期金利の誘導目標の引き上げ(0~0.1%から0.25%へ)を決定した。

 

日銀のロジックを追いかけてきたエコノミストにとっては、今回の利上げは意外なものだっただろう。前回決定会合後の経済指標は、GDPギャップのマイナス幅拡大、実質消費支出の低迷、鉱工業生産の低下など、多くのものが小幅の悪化を示していた。

 

また、日銀が「見極める」としてきた「物価と賃金の好循環の強まり」も、実質賃金が26か月連続して前年割れを記録するなど、好循環には程遠い状況にある。

 

それでも、日銀は「経済・物価はこれまでの見通しに概ね沿って推移している」とし、「賃金も、幅広い地域・業種・企業規模において、賃上げの動きに広がりがみられている」との理由をあげて、利上げに踏み切った。

 

エコノミストが混乱するのも無理はない。日銀自身の掲げるロジック自体が変容しているように見える。解釈の難しいところだが、詳しくみてみよう。

 

統計が示唆する「物価と賃金の悪循環」

 

日銀は、「物価と賃金の好循環」を強調する中で、賃上げ状況と企業の価格設定スタンスをとくに重視してきた。実際、今年の春闘では大幅な賃上げが実現した。

 

しかし、実質賃金は、春闘の結果が織り込まれつつある5月のデータ(確報)も、未だ前年同月比-1.3%と、大幅なマイナスにある(参考1)。

 

(参考1)名目賃金、実質賃金(前年同月比)の推移

(注)事業所規模5人以上。直近は5月確報。
(出所)厚生労働省「毎月勤労統計調査」をもとに筆者作成。

 

賃金は物価の遅行指標なので、拙速な判断は避けなければならないが、「好循環」と言えるためには、少なくとも実質賃金が過去のマイナスのかなりの部分を取り返し、プラスが定着する状態にならなければならない。

 

好循環を生む重要な手がかりは、企業の生産性向上である。生産性の向上があってはじめて、企業収益の拡大と賃金の上昇が同時に起き、物価上昇率を上回る賃金の伸びが実現することになる。

 

しかし、足元で起きているのは、むしろ逆の現象だ。賃金指数(名目賃金)の統計には、内訳として一般労働者とパートタイム労働者の2区分がある。5月の前年同月比は、一般労働者が+2.6%、パートタイム労働者が+3.4%だった。

 

にもかかわらず、一般、パートの両方を加重平均した全体の値は+2.0%にとどまった。春闘の大幅賃上げにもかかわらず、名目賃金の伸びはさほどではなかったというわけだ(参考2)。

 

(参考2)一般、パートタイム別名目賃金(前年同月比)の推移

(注)事業所規模5人以上。直近は5月速報。
(出所)厚生労働省「毎月勤労統計調査」をもとに筆者作成。

 

加重平均した値が内訳項目のそれぞれの伸び率を下回ったのは、雇用の非正規化が進み続け、賃金の絶対水準が低いパートの構成比が高まったからだろう。

 

それだけ、多くの中小企業が、原材料費高と賃金コストの上昇に苦しみ、正規雇用に代えて非正規を増やしているということだ。企業の生産性が上がっていないことの証左である。生産性が上がらないままでの物価と賃金の上昇は、「悪循環」にほかならない。

 

「物価と賃金の好循環を見極める」はレトリック

 

日銀が繰り返し強調してきた「物価と賃金の好循環を見極める」は、もともと超低金利政策を続けるためのレトリックだったと理解される。好循環や賃上げという用語は、国民受けがよいので使ったのだろうが、これが金融政策を分かりにくくしている。

 

考えてもみよう。将来、物価と賃金の好循環が見極められたときには、日銀はどうするか。当然利上げを行って、金融緩和の度合いを調整することになる。では、悪循環の場合はどうか。この場合も、当然、利上げを行う。物価の抑制に努める必要があるからだ。

 

好循環、悪循環のいずれにしても、選択肢は利上げであり、判断基準は物価上昇圧力が高まっているかどうかだけである。物価安定を目標とする金融政策に、物価と賃金の好循環を見極めるプロセスは必要がない。

 

そう考えると、今回の利上げ理由の中に「輸入物価の上昇に伴って物価が上振れするリスク」が含まれているのは示唆的だ。輸入物価の上昇は、まさしく物価と賃金の悪循環を引き起こしかねない一要素である。今後、オーソドックスな金融政策に回帰していくのかもしれない。

 

ビハインド・ザ・カーブの恐れが強まる

 

しかし、安直にオーソドックスな金融政策に戻るとも判断できない。今次利上げと物価2%目標の関係がはっきりしないからだ。

 

今回公表された経済・物価見通しの中で、日銀が重視する「基調的な物価上昇率」(生鮮食品、エネルギーを除く消費者物価指数総合)は、2024年度+1.9%、25年度+1.9%、26年度+2.1%と、前回4月見通しとまったく変わらなかった。しかも、その水準は、日銀が物価目標に掲げる2%ぎりぎりである。

 

従来ならば、輸入物価の上昇は「物価目標2%の持続的、安定的な達成」をより確実にするものとして、取り上げることはなかっただろう。そう考えると、今回利上げが行われた背後には、輸入物価の上昇だけでなく、別の理由もあるように思われる。

 

例えば、内外で円安批判が高まったことがあるかもしれない。また、すでに欧州中央銀行が利下げを開始し、米国FRB(連邦準備制度理事会)でも利下げが視野に入ってくる中で、日本だけがビハインド・ザ・カーブになる可能性を恐れたのかもしれない。政策金利を据え置いているうちに、世界的な景気・物価サイクルが一巡し、金融の正常化を進められなくなるリスクである。

 

今回、日銀が「『展望レポート』で示した経済・物価の見通しが実現していくとすれば、それに応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく」との意気込みを示すのも、そうした意識の表れかもしれない。

 

日銀は率直なコミュニケーションを

 

それにしても、日銀のロジックは分かりにくくなった。例えば、次のような疑問が湧いてくる。

 

(1)物価の先行き見通しが前回(4月)から変わらなかったにもかかわらず、今回、利上げが行われた。そうであれば、物価見通しが変わらなくても、いつでも同様の政策変更がありうるのか。

 

(2)先行きの物価が前年比2.0%前後で継続するとの見通しのもとで、今回の利上げが行われた。日銀の掲げる物価目標は、2%を中心に一定の変動幅をもって運営されていくと理解してよいか。

 

(3)将来、物価上昇率が2%を割ってくる場合、どのような金融政策を講じていくのか。異次元緩和に戻るのか。

 

いまの日銀は、異次元緩和のロジックを踏襲して政策を説明してきたために、ロジックが非常に分かりにくくなっている。今回、従来のロジックの延長線上にはない政策変更が行われたこともあって、将来を見通すのは一段と難しくなった。

 

このままでは、市場とのコミュニケーションギャップが埋まらない。日銀には、率直なプレゼンテーションを期待したい。

 

以 上

 

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