金融経済イニシアティブ

アメリカの小学校、日本の小学校

2021.04.16

20年ほど前、滞在中のニューヨークで、子どもたちを現地校(公立)に通わせた。

 

子どもたちはもちろんのこと、親である私たちも米国の小学校は初めてだ。

 

わずか1校の経験なので一般化はできないが、見るもの、触れるもの、すべてが目新しかった。

 

アクセサリー

 

ガチャガチャガチャ。。。。。

 

アクセサリーを鳴らしながら登校する生徒がいる。

 

ブレスレットが多いようだ。

 

ジャラジャラジャラ。。。。。

 

 

先生たちの本音は、「体育もあるし、本当はつけてこない方がいいんだけどね」にあるようだったが、決して注意しない。

 

体育の時間には、わざわざ保管箱を用意するほどだった。

 

ガチャガチャガチャ。。。。。

 

 

後日、日本企業の現地駐在員が教えてくれた話。

 

彼「いえね、うちの小1の娘が、日本に帰りたくないって言い出しましてね」

 

私「ん?どしました?」

 

彼「それがね、『だって、日本の学校は、アクセサリーはダメなんでしょ!』って言うんですよ(笑)」

 

予行演習

 

日本の学校は、予行演習がやたらに好きだ。

 

運動会、合唱祭、卒業式。。。。

 

卒業式ともなると、数週間前から、立ち位置にはじまり手の動きまで、入念にチェックしている。

 

いったいどれほど授業時間を割くのだろう。

 

 

米国もイベントは多い。しかし、大半はぶっつけ本番か、精々1時間程度の予行演習だ。

 

“Field Day”と称するイベントがあった。

 

「運動会もどき」の時間だが、当日、生徒が運動場に集まり、その場で説明を聞いて、楽しむばかりだった。

もちろん家族は呼ばれない。

 

何時間も授業を削るぐらいなら、日本もはじめから家族を呼ばなければいいと思うのだが、どうだろうか。

 

式、あるいは形式

 

形式を重んじるのも、日本ならではか。

 

 

小学校の運動会。閉会式で。

 

放送席の生徒「これから閉会式を始めます。生徒のみなさんは、校庭の前の方に並んでください。。。。では、閉会式を始めます。**先生、カイシキのコトバをお願いします。」

 

私(ん?カイシキ??それを言うなら、ヘイカイシキだろ、ハハハ)

 

**先生、登壇。「え~。これより、令和*年度運動会の閉会式を始めます」**先生、降壇。

 

私(ん、ん~?それだけ?。。。あ、そうか。カイシキとは開式かぁ。「閉会式の開式」だったか。こちらの間違いかぁ。。)

私(ん?しかし、待てよ。それって、さっき司会の生徒が言ってたよな。なのに、「始めます」を言うだけのために登壇、降壇するのか!。。。ん~、形式的だ。もしかしたら、またあとで、、、)

 

そのまま、式が進んで、、、

 

放送席の生徒「では最後に、△△先生、ヘイシキのコトバをお願いします。」

 

私(ほら、やっぱり!)

△△先生、登壇。「これで、閉会式を終わります。」△△先生、降壇。

 

 

限られた経験から、私が得た結論は次のようなものだ。

 

米国の小学校教育は、子どもが「大人の社会に入っていくための教え」である。

 

大人に許されることは、生徒も許される。大人が許されないことは、生徒も許されない。

 

大人にとって合理的なことは、生徒にとっても合理的だ。大人が不合理と感じることは、生徒にとっても不合理だ。

 

彼我の差はなにやら大きい。

 

(イラスト:鵜殿かりほ)