蜻蛉日記の作者の子って、だれ?
2024.04.0140歳を過ぎるあたりまで、たまに、受験を控える夢をみた。
不安に満ち、楽しい夢ではなかった。
受験は、それほどプレッシャーを感じる出来事だったのだろうか。
蜻蛉(かげろう)日記
入試の国語(古文)に、日記ものが出題された。
うろ覚えだが、作者の女性とその子の会話シーンから、その子が誰かを問うものだった。
手も足もでなかった。
入試後、友人との話題がその問題に及んだ。
友人「あの問題の答え、分かったか?」
私「いや、まったく。手も足も出んかった」
友人「あれ、蜻蛉(かげろう)日記やで。入試の定番や」
私「え、そうなんか。それすら気づんかったな」
友人「気づきさえすれば、簡単やったのにな」
私「ということは、作者は「藤原道綱の母」か」
友人「そうや」
私「ってことは、正解は藤原道綱ってことか」
友人「えっ!」
なぜか、友人の顔色はみるみる青ざめていった。
私「ん?どぅした」
友人「い、いかん」
私「どぅした」
友人「いや・・・」
私「ん?」
友人「いや、解答欄に「藤原道綱の母の息子」と書いてきてしまった!」
私「えっ!」
友人「ん~~」
私「・・・」
友人「たしかに、「道綱の母の息子」は道綱でもあるな」
私「そうだ、道綱だ」
友人「ま、俺の答えも間違いとはいえんわな。どや、正解にしてくれると思うか?」
私「そんなん知らんわ」
学生不在の教室
大学の専門課程での学科は、1学年70名ほどの少人数だった。
これがいくつかの分科に分かれていて、私が所属する分科は20名ほどだった。
分科ごとに必修の授業が決められているほかは、どの授業を受けても単位がとれる仕組みだった。
学科全体で1週間に200ほどの授業が組まれている。
2学年あわせて140名程度だから、1つの授業に学生が数名、場合によっては教官と学生が1対1というクラスもあった。
教える側も学科に所属する教官だけでなく、他大学から多くの講師を招聘していた。
あるとき、他大学から初めて招聘かれた講師が、息せき切って、教務課の部屋に駆け込んできた。
教務課は学科の事務を取り扱う元締めで、職員は教官ではない。
講師の話では、「初めての教室に向かったが、誰もいない、部屋を間違えたようだ」とのことだった。
教務課の主任は、話を聞くや否や、事態を察知した。
「たいへん申し訳ありません。私どもの伝え方が悪く、学生に十分周知できなかったようです。来週までには、きちっと皆に伝えますので、よろしくお願いします」
そう言って、その日は講師にお引き取り願ったという。
もちろん、ウソである。
授業に関心をもった学生が、一人もいなかったのである。
招聘は教授会が決めたのだろうが、あとはお任せの様子だった。
教務課の主任は、まったく責任がないにもかかわらず、みずから学生一人一人に電話をし、授業への出席を勧誘して回った。
それでも、世の中はうまくできたものである。
講師1人に学生1人ならば、はじめから「優」は保証されているようなものだ。
そうした打算から、勧誘に乗る学生もいたようだ。
なにごともなかったかのように、新学期が始まり、日々が過ぎていくのだった。
自分で問いを作って、答えよ
学科内の授業だけでなく、他学部の授業を単位に組み込むことも自由にできた。
たまたま卒論の指導教官が他学部でも授業を行っていたので、出かけていった。
期末試験は、5問の中から2問を選んで答える問題だった。
印象深いのは、5問目である。
「この授業にふさわしいと思う問題を5問作成して、うち2問に簡潔な答えを記せ」
のちに教官とこの問いが話題になった。
教官「毎年不埒(ふらち)な学生がいてな、出題には答えず、自分で勝手に問題をつくって答えを書く奴がいるんよ。そこで、今年からそれも認めることにした」
私「はぁ、てっきり、いい問題があれば、来年の試験に転用するのかと思いました」
教官「あ、それね。それも考えた。でも、こういう問題を選択する学生は、やはり勉強してない輩(やから)なんだな。結局、いい問題はなかった。誠に残念だ」
卒論に思う
4年間の総仕上げは、卒論だった。
審査に通らなければ、本当に卒業させてもらえなかった。
私の卒論のコピーは、今も自室の本棚の奥深くに眠っている。
久しぶりに広げてみると、400字詰め原稿用紙に本文が140枚だった。
今読めば恥ずかしくなるほどの稚拙さだが、ぜいたくな日々であったことだけは間違いない。
(イラスト:鵜殿かりほ)